淀の陽だまり 第2回 菅原天満宮

淀陽司法書士事務所の名前の由来

 昨今、教皇選挙〈コンクラーベ〉が世界の耳目を集めています。先月にはレオ14世がアメリカ人初のローマ法王に選出されましたし、映画の『教皇選挙』も上映館が制限される中大変な興行収入を記録しています。私がこの映画の中で一番面白かったのは、“誰しも枢機卿になったなら、自分が教皇に選出されたならばどの名前にしようかと考えているものだ” というセリフです。 インノケンティウス〇世にしようか、グレゴリウスがいいかな、俺はクレメンス〇世だ、というように誰しも教皇になりたいのだという事です。

 

 私も、司法書士事務所を立ち上げるにあたって、どういう名前の事務所にしようか考えました。

最初はコスモ〇〇〇とかロゴス〇〇〇、パトス〇〇〇といったギリシャ語風の事務所名にしようとロゴを作ってみたりしたものです。でも、今の西中島二丁目の事務所を借りることができて、淀陽司法書士事務所としました。単純に淀川の北岸にある事務所という事です。

 中国の陰陽道では、山の南斜面を、北側をとするのに対し 大きな河の北側を、南岸がとなります。川の北側が陽というのは少し疑問に思いますが、北半球では北岸に立つと南中の太陽の光を川面に反してキラキラと浴びるのでなるほどそうかといった感じです。

 中国の都市でも有名なのは洛陽で洛水という川の北に開けたいにしえの古都,韓国のソウルも漢江(ハンガン)の北になりますので漢陽というニックネームがあります。おもしろいのは始皇帝の都である咸陽でして、九そう山の南、渭水の北に位置し、ことごとく陽という事で咸(みな)陽と名付けられました。 という事で、東周の都洛陽や秦の都咸陽ほどでないにしろ、淀陽という名前には 淀川という日本史上有数の河川の北岸という大きな重みがあり、名前負けしないよう頑張りたいと思っております。 

 

平安時代の大阪

 平安時代の大阪を想像してみますに、飛鳥奈良時代には大和盆地との結びつきから大阪にも難波宮など築かれ又大陸外交の玄関口として早くから開発が進みましたが、平安時代になり都が京都に移って以降そして国風の文化になって以降、大阪の地は都の西南の鄙びた地方にやや色褪せます。

 おそらく、今の大阪市の松屋町筋や堺筋より西の方は海が入り江となり、所々に島や葦の繫る中島が見える浅茅うの湾だったのでしょう。 澪標(みおつくし)という大阪の市章も船が浅瀬を航行するのに建てられた船の道しるべということです。

 しかし一方で大阪には住吉大社や四天王寺といった都の貴族や有形無形の僧侶たち、あるいは信心深い発心者達があこがれる寺社もあり、四天王寺の西門から海に沈む夕日に平安の人々は西方極楽浄土を夢見て感涙しましたし、まさに此の世とは思えぬ美しい眺めだったと思われます。

また、平安末には熊野詣であるいは高野山への参詣の出発点として淀川を上り下りする船の行き来もかなりの賑わいを見せていたと想像します。

 菅原道真も西国に下向するに淀川を下って摂津の港に出て海を眺めました。因みに今の阪急淡路駅のあたりを淡路というのは、道真が淡路島と勘違いしたことからつけられたという話もあります。


菅原天満宮 大阪市東淀川区菅原道真二丁目3-27

菅原天満宮は、残念ながら道真その人とは直接に所縁があるものではなく、江戸時代の寛永年間にこの地を開いた三島江屋太郎兵衛らが村の鎮守として勧請されたようです。人々の道真への敬慕の思いが伝わります。

私は事務所から自転車で淀川沿いを上り20分程で着きました。神社は小高い堤の上に鎮座し大きな樟の木々が神社を囲み、隣りに公園や保育所などがあり近隣の人々に安らぎを与えてきたことが察せられました。

 次回は更に東淀川区の淀川を遡り江口の里という、平安期以降遊女の里といわれた所に向かいたいと思います