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淀の陽だまり 第六回

 まだ福井で中高生だった頃、近畿の地図を眺めて特に気にかかる町が有りました。一つは近江八幡であり、もう一つが大和郡山でした、何故かと言いますと四文字の市名が珍しくオウミ〇〇、ヤマト〇〇という響きが良いといった単純な理由です。市名の頭に旧国名を冠するのは他に八幡市や郡山市があるので区別する必要からでしょうが、近畿地方には他にも河内長野市大和高田市などがあります。

 調べてみますと、高田市がつく市は他に陸前高田市、安芸高田市、豊後高田市と日本に四つもあるようです。ただ肝心の高田市があるのかというとありません、これは地理歴史に詳しい方はご存知かと思いますが、1971年(昭和46年)まで新潟県に高田市がありましたが、この年に直江津市と合併して現在は上越市となっている町です。ココには戦前には第十三師団が置かれ軍都として日本海側の重要な拠点の一つとして、又上杉謙信の春日山城があったところとして有名です。直江津は国鉄時代の北陸本線の沿線住民だった私にとって金沢富山をはるかに越えて北の果ての終着駅のイメージがありました。大阪発直江津行きの寝台急行などが走っていたのでしょうか? 前置きが長くなりましたがこの近江八幡と大和郡山は単に四文字市名というだけでなく幾つか共通点があります。

 ①近江八幡は豊臣秀次という秀吉の甥(姉の子)が町を築き、大和郡山は今年の大河ドラマの主役     

  豊臣秀長という秀吉の実弟が治めた町である(いずれも短期間でしたが)

 ②八幡山城と大和郡山城はいずれも続日本 100名城に指定されている

 ③人口は近江八幡市も大和郡山市も約8万人とほぼ同規模である

 ④いずれも県庁都市から(大津市、奈良市ともに人口が34万人ほど)かなり至近の位置にあり県の中

  でナンバー2なり3の都市として存在感を有している

 ⑤八幡商業、郡山高校といった県内での超有名公立高校がある

ただ、違う点として江戸期以降、近江八幡は廃城となり近江商人の町として、郡山はその後も柳沢氏の城下町として武士の町として今日に至っている事です。


1 近江八幡

 昨年末、12月29日まず近江八幡に出かけました。大阪からJRの新快速でおよそ1時間(1520円),

京都からなら 680円です。ご存知の方も多いと思いますが、近江八幡の旧市街はJRの駅から1.5㎞ほど

離れていて観光客などは駅からバスに乗って町の中心市街へと向かいます。朝寝坊のため旧市内の旧西川家住宅や旧ウォーリーズ住宅などの観光施設を見ることができずそのまま八幡掘という掘割を渡って日牟禮八幡宮に向かいました。以前の石清水八幡と同じく市の名称となっている由緒ある華麗な八幡宮が建っています。ここから八幡山がとんがり帽子のように聳えロープウェイで上がります。

 八幡山城はその山頂にあり1585年(天正13年)秀次によって築かれました。当日は冬晴れの晴天で眼下に八幡市街、遠くには山頂付近を白く輝かせて伊吹山や鈴鹿山脈の山並みが連なり絶景です。

城跡も思った以上に堅固な石垣群が残されていて、又二の丸・北の丸などの出丸の縄張りもはっきりしていてかなりの規模の本格的な山城だったことがわかります。何よりも西の丸からの霧がかった琵琶湖とそこに浮かぶように連なる比良山系、比叡山の山並みが青空に映えて訪れた誰しもが歓声を上げていました。帰りは南斜面の崖路をすべるように下り(道しるべはありますが、笹で覆われ足下が非常に困難)歩いて30分ほど、湖岸の長命寺にお参りしました。〔西国観音第三十一番札所です。〕

 室町期から戦国、織豊時代にかけて南近江のこの地域が京都と東国(尾張、美濃あるいは関東)とを結ぶ最重要拠点であったことは山上からの雄大な眺め、近江平野の広がりからも実感できました。

 守護六角氏が栄え、信長が安土城を築き、その後秀吉は甥の秀次をもって南近江を押さえ八幡山の上に安土城を移す形で城を築きました。城下には商人が集い交通の要衝として栄えました。ただ、

 六角氏も信長も豊臣氏も悲運の中歴史に消え、今は廃城となり山上には秀次の母日秀尼(ドラマでは宮澤エマが演じている)が秀次の菩提寺として建てられた瑞龍寺が京都嵯峨野から移されて訪れる人々を静かに迎えてくれます。

八幡山城に登るロープウェイ

近江八幡市街方面

長命寺



2 大和郡山

 秀長は、秀吉の弟として豊臣政権の創業に大きな役割を果たしました。信長、家康と比較すると、秀吉は後継者には恵まれませんでしたが創業を補佐する良き肉親の兄弟がいたわけです。ビバ!「豊臣兄弟!」信長は信行という弟を殺していますし、他の兄弟も一向衆との戦いで亡くしたり、唯一末弟の長益が江戸期以降織田家を存続させた形です。家康にも補佐する兄弟はあまり見あたりません。(母親の於大の方と父親違いの兄弟、定勝というのがいて四国松山藩の祖となっているようです)

 秀吉は、中国の毛利攻めの際、自身は播磨から山陽道を、弟の秀長は丹波、但馬方面から進攻するといった二方面作戦をとることができ、九州の島津攻めの時も自身は熊本の方から、秀長軍は大分宮崎の方から南下する形で一方の方面軍を任せています。

 関白になった以降、秀吉は、自ら外交交渉にあたるよりも秀長にかなりの部分を担当させていました

そして秀長は、四国攻めの後1585年大和郡山に入り大和・和泉・紀伊を領国とする大名として領国経営にも手腕を発揮しました。ただ、残念なことに1591年秀吉の北条攻めによる天下統一を見届けて間もなく病により52歳で亡くなりました。

 1月某日、雲が低く空を覆い時より細かい雨が降る中、近鉄電車でまず橿原神宮に初詣でに行った後(神域の広大さと雄大な拝殿の建物、神木、神々しく聳える多武峰、金剛山、日の丸の高く翻る様子に神宮というものの清らかさ、皇室の尊貴さを感じました)近鉄郡山駅に降り立ちました。

 郡山城は本当に城の縄張りと城下町の成り立ちが今もよくわかる所で堀と石垣によって、本丸,二の丸,それらを取り囲む幾つかの曲輪がはっきりした形で現存していて近世城郭のつくりを知るには格好の教科書です。天守台は本丸の奥に高く積まれ上からの奈良盆地の眺めは素晴らしく、城の縄張りもよくわかります。城の東南には「箱本十三町」といわれる町人地の細い町割りが短冊形に残り古い街並みを留めていました。江戸時代後半、郡山には甲斐の国から柳沢氏が入り15万石という大きな藩の城下でした。近畿地方では和歌山55万石、彦根35万石に次いで姫路15万石と並び3番目に大きな藩だったのです!(長く大阪に住んでいて今まで一度来たきりで素通りして奈良に行ってました。ゴメンナサイ!)

 

 近江八幡と大和郡山、いずれも普段名前をよく聞き地名に愛着すら持つのですが、住民の方以外は、あまり訪れる機会の少ない二つの町ですが、意外な共通点そして隠れた観光地で、秘めたる町の実力を実感した次第です。