桜に対する日本人の思いの深さは、この時期日本中が桜の話題で持ちきりになる事からも恒例の事なのですが、日本人一人一人に桜への思い入れがあり、好みの桜や花見のスタイルなど人それぞれでしょう。
私個人としましては、桜並木や多くの桜の木が集まる名所よりも一本のサクラの木が大地にスクット立って枝木を伸ばし満面に花を咲かせている方が好みではあります。 公園や道路あるいは河川の土手などに人工的に植えられたものよりも人里離れ人知れず咲く一本のサクラの木に対する時、何か木との対話ができると言いますか、じっくり桜の花と対面出来てすばらしい時間を過ごすことができます。
借景としては、一番は古い学校の木造校舎でしょう! 校庭の片隅に咲く一本の桜と学校ほど日本の春を象徴するものはないと思います。次に山里の風景です。緑のなだらかな稜線と古い民家の甍に、田なり野の中に咲く一本の桜、特に何の気なしに歩いていて突然にそういった桜に出会った時の感動はひとしおです。あと、残雪残る高峰を背景に咲く山里の桜もいいものでしょう。こちらは一本では少し山の大きさに負けてしまうので、何本か桜が並木になっていても良いでしょう。 と想像しますが、私の中でそれに当てはまる桜の場所があるわけではありません。木造の校舎はほとんどなくなり、山里もコンクリートの建物や鉄塔、高速道路などで昔の風景を留めません。古い時代への郷愁になっています。
今回訪れた又兵衛桜もかつては二番目の山里に咲く美しい一本の大櫻だったと思いますが、今では観光名所になってしまってます。それでも一本の木の滝桜と会うべく気の乗らない日曜の曇天の朝でしたが、近鉄電車で出かけました。
4月5日(日) 環状線で鶴橋駅まで行き、そこで8時10分の急行で榛原駅に向かいました。榛原駅ではバスに接続していて、今回は直接又兵衛桜のある大宇陀方面ではなく旧菟田野町方面に行く10系統の奈良バスに乗りまず、宇賀神社と宇太水分神社を訪ねました。そこから歩いて4㎞ほど旧大宇陀町のエリアに入ります、菟田野の辺りは何とも古さびて静寂でしたが、こちらに来ますと道の駅の交差点あたりは車も人も多く近隣からあるいは遠方からの行楽客で賑わっています。昼食を済ませてから、いよいよ又兵衛桜まで歩きます。道の駅「宇陀路大宇陀」からは1.5㎞ほど20分少々の距離ですが、山里の道路はズット車の渋滞が続き、中にはサイドカー付きのバイクやオープンカーのジープタイプの車など日本人のツーリングスタイルも随分多様化しているようです。
又兵衛桜のある辺りは、山あいの古くは阿騎野と呼ばれ、天武・持統・文武朝の頃には朝廷の狩猟地として万葉の歌にも詠まれる古くからの里になり、山から流れる細流の脇の高台に石垣が組まれ、その上に巨大な桜は無数の枝を天に伸ばし、地に垂らして花を咲かせています。近くで見るよりも少し遠くから眺めるとその大きさに驚嘆します。まさしく巨大な瀑布が流れ落ちるような様で、桜の枝を幾重にも垂らし風が吹くとゆるやかにその枝を揺らしています。近くの桜の木と比べてもその大きさが実感できます。少し曇り空だったのが残念ですが、満開の又兵衛桜を見ることができました。
▶宇陀地方
古くから宇陀地方は飛鳥地方や吉野川流域と背中合わせの地であり軍事、交通面でかなり重要なエリアでした。伊勢方面への通り道にもなります。特に日本の建国神話とされる古事記/日本書紀で描かれる「神武東征」の伝説ではカムヤマトイハレビコと言われる神武天皇が宇陀地方の豪族であるエウカシ、オトウカシの兄弟との逸話がかなり詳しく書き記されています。
天孫降臨の地、高千穂の宮、日向を発ったイハレビコ一行は、筑紫、阿岐(安芸)、吉備などを通って大阪湾の速吸の渡を進み、生駒山を抜けて大和盆地に入ろうとしますが、ここで登美の豪族ナガスネヒコ(㊟1)の軍勢に打ち負かされ退却します。兄のイツセノミコトをこの戦いで失い、イツセノミコトの ”吾は日の神の御子と為て、日に向かいて戦ふこと良くあらず。...今よりは行き廻りて、背に日を負ひて撃たむ” という言葉に従い紀伊半島を廻って熊野に上陸するのですが、ここで、イハレビコとその兵たちは気を失ってしまいます。そこに土地の有力者タカクラジが、フツノミタマ(㊟2)という剣をさげて現れ、その剣の霊力により一行は正気を取り戻し、さらに八咫烏の導きにより熊野や吉野を進み土地土地の豪族を従えていきます。
吉野川流域から宇陀地方(宇陀の穿)に入ったイハレビコの軍勢はエウカシ、オトウカシの兄弟と対峙します。兄のエウカシはイハレビコを大殿にいざないその内に押機(オシ)を作って謀ごとで命を奪おうとするのですが、弟のオトウカシはイハレビコを迎えて兄の計画を密告します。
エウカシは東征軍の大伴連や久米直らに太刀や矛により押し返されついに自分の仕掛けた押機によって命を落とします。
その後、イハレビコは宇陀から奈良盆地に進攻し、もう一人の日の御子である饒速日命(ニギハヤヒノミコト㊟3) の恭順を得て、畝傍の橿原の宮で即位して天下を治めたとされます。
㊟1)登美とは生駒山の東、富雄川流域、近年富雄丸山古墳の長大な蛇行剣で注目される
㊟2)高天ヶ原の神はタケミカズチを下そうとするが、彼は自分が下らなくともかの国を平らげし
剣を降すべしとしてタカクラジの下に降ろした剣。現在石上神宮に坐す剣
㊟3)天の磐船に乗って天下ったとされる、ナガスネヒコを討ち、イハレビコの大和平定に協力す
る。物部氏の祖神とされる
宇賀神社
エウカシの館があったと伝承される
・奈良県宇陀市菟田野宇賀志
阿紀神社
垂仁朝の頃倭姫命が天照大神の御魂を祀る地を探して、伊勢神宮のまえに鎮座されたとされる古社
宇太水分神社
菟田野にある古社鎌倉時代の1320年に建立、国宝建築
宇太水分神社の狛犬
NHKのテレビでこの狛犬は名作中の名作とか、確かにリアルで愛嬌が有りました
江戸時代前半、宇陀松山の地は織田信長の二男信雄の系統が2万石余りで治めていました。(五代目の時に兵庫の柏原に国替えとなる)標高 470mほどの山上には続 100名城にも選定されている宇陀松山城跡があります。今回は登ることができませんでしたが、古い町並みの建造物群も残りまさに歴史の宝庫といったエリアです。
又兵衛桜のある地はまさに淀川の最上流域にあたり、木津川の上流の名張川の上流の宇陀川の最上流部分になります。
㊟ 今回記紀の「神武東征」を取り上げましたが、これは戦前の皇国史観とか軍国主義的なイデオロギーとは全く関係なく、私個人としましてはこのような建国神話が近隣諸国の人々に不快な感情を与えるのなら控えるべきとも思います。一方で日本の国のはじまりについて古い書物の中で語られている事や地域の伝承,言い伝えを大切にする事も、また大事かなとも思っています。



