淀の陽だまり 第10回 淀川下流デルタ5区(その1港区)

淀川デルタ5区

 大阪の地図を45度ほど反転して北東を上にして眺めてみると、淀川が大きく上から流れ下り河口付近で多少いびつながら大きく枝分かれしてデルタ地帯を形成し大阪湾に流れている事がわかります。

 北から中島川、神崎川、淀川本流、安治川、尻無川、木津川といった川が流れこんでいます。

古代以来、淀川が氾濫を繰り返し川筋を幾度にも変えながら広大なデルタ地帯を形成し、海と川と中洲や潟が混然として変転していく様子が現代の地図からも察せられます。淀川が多くの土砂を運び、それを波が侵食し、あるいは大雨により氾濫して、中洲であった所が再び水に帰したり・・・しかし、大阪の歴史というのは徐々にではありますが陸地が西へ西へと埋立てられていった歴史なのでしょう。

 江戸期あるいは明治初期までは島であり中洲であり新田開発の村に過ぎなかった湾岸エリアが、明治中期以降埋め立てや干拓により港湾物流地帯,工業地帯,住宅地となり大阪の市街地へと急速に変貌して行きました。そんな現在の西淀川区、此花区、港区、大正区、住之江区の5区を今回私は淀川デルタ5区と名付け少し歩いてみたいと思います。

 まず、トップバッターにデルタ5区の中では真ん中に位置し最も早くに市街が形成され、大阪港と天保山を擁する港区を取り上げます。

「電気大博覧会」

 今回シリーズ化?の一つとして「淀川下流デルタ5区」としましたが、もう一つのシリーズとして、

「昭和 100年を思う」として1926年(大正15年/昭和元年)にスポットを当てて行きたいとも思います。丁度 100年前の1926年は12月25日までは大正15年でしたが、12月25日に大正天皇が崩御され、12月26日から6日間だけ昭和元年だったのです。〈昭和は64年も(1989年)1月7日までなので実質62年間と少々となる〉

 そんな 100年前の1926年3月20日ここ港区では「電気大博覧会」というのが開催されました。

 会場は港区田中、八幡屋で現在は八幡屋公園として中央体育館やプールがある所です。主催は日本電気協会関西支部で、一般国民の電気知識の普及宣伝と産業振興を目的に内外から3万点以上の出品があり、会場には運河が掘られ交通館、動力館、家庭電化館などの展示館や演芸館、シープレーンといった遊興施設が建ち並び5月末までの会期中 290万人の来場者でにぎわいました。とくに当時普及し始めたラジオや電熱器、電気時計などの家庭電気器具に多くの人が興味を持ち新しい時代の到来に興奮したようです。

港区の歴史①

話が前後しますが、大阪の湾岸の歴史としてまず特筆すべきは明治初年に(1868年)慶応4年/明治元年

   3月23日 明治天皇、大坂行幸 天保山沖で日本初の観艦式

   5月  1日 川口運上所開設(外国事務・関税事務を取扱う)

   7月15日 大阪港開港、そして川口居留地を開く

  12月24日 松島遊郭の開設に向け業者を募る布告が出る

          ⊛以上引用「続大阪古地図むかし案内 明治~昭和初期編」 本渡 章著 P40

 そして明治7年(1874)に江之子島に大阪府庁が建てられました。

現在では少し考えられないですが、もともと大阪の町は西側(港の方)に重心があったのです。その後

川口居留地は思いの外、外国の商館など根づかず神戸の方が主流となり、異国人の遊興と市中遊郭の統合を目的に開設された松島遊郭の方も外国人受けが悪く苦戦します。(ただしこちらは西南戦争で戦地に向かう日本人兵に人気となり昭和30年代初めまで隆盛でした。)

大阪市の拡張

 元々の大阪の町は江戸期から明治初期までは、西は今の木津川まで、東は大阪城、北は曾根崎、南は千日前,難波御蔵までの範囲で、ほぼ4㎞四方が。ヨーロッパでいう所の旧市街地エリアと言えます。

(産業化、近代化以前の歴史的エリア)つまり淀川デルタ5区は全く大阪ではなかった事になります。

 明治の文明開化の時代になってこれらの旧市街の周縁部に、北の梅田に大阪ステーション〈鉄道〉(明治7年)、東の大阪城周辺に鎮台や兵器工場さらに造幣局(明治4年)、西に先ほど見た外国人居留地や府庁舎(明治7年)、南の難波,湊町などには阪堺鉄道,大阪鉄道〈民鉄〉(明治18年以降)と、

船場あたりの大阪町人は町中に造ることを嫌がり、周縁部に外国人居留地や鉄道の駅、軍の施設ができていった事がわかります。ただこれらの施設は近代化の象徴として町のランドマークともなり旧市街を越えて東西南北に大阪が拡大発展してゆく起爆剤ともなりました。とりわけ最初に伸びていった方向は西と南でした。

 1897年(明治30年)の第一次大阪市域拡張によって、それまでの旧市街4区(東区・北区・西区・南区)4㎞四方が、西区が現在の港区,大正区を含むエリアに拡大。 南区が現在の天王寺区,浪速区を含むエリアに拡大しています。だいたい今日の大阪環状線の内側エリアまで市街地化が進んでいったようです。

港区の歴史②

 港区が西区から分離して初めて港区となるのは大正14年(1925)の第二次市域拡張まで待たなければなりませんが、(この第二次市域拡張により大阪市はほぼ現在と同じ広さまで拡大し、4区から13区となり人口は 200万人を超え大大阪といわれる時代になります)

 ここで注目したいのは、旧エリアから最初に伸びた方向が西と南だったという事です。

特に、明治36年(1903),日露戦争前夜のころ,現在の天王寺公園では第五回内国勧業博覧会が開かれ、同じ年に市電、最初の区間として大阪港の築港桟橋から花園橋西詰が開通し市電の時代が始まります

 いずれも第一次拡張により大阪市になったエリアです。

現在のみなと通りにあたる所に大阪市内と大阪港を結ぶ最初の市電が敷かれ、以後田や畑であった、

市岡や田中、八幡屋といった所が急速に市街化され港区の人口も大正9年には19万人、大正14年の港区誕生のころには(現在の大正区と合わせたエリア)28万人に急増しています。そして先ほど述べた翌

大正15年(1926)3月に電気大博覧会港区で開催されました。

 


 現代の航空機や自動車交通が発達する以前、港区は文字通り船舶や市電を通して大阪の西の玄関口であり産業化の最前線であった事がわかります。戦後、そういった機能は新たに埋め立てられた大阪南港や夢洲、そして昨年万博が開催された夢洲など(隣接する此花区や住之江区)に移りましたが、 港区は引き続き海遊館や天保山のレジャー施設など内外の多くの人々を魅了し続けています。

 

 ⊛今回、大阪市の明治以降の発展に関して、前掲の本渡章氏の「続大阪古地図むかし案内、明治~昭和初期編」創元社発行 を参考書籍とさせていただきました。

天保山について、

天保山は元禄時代の絵図には描かれていないようで、この山は天保2年(1831)になって生まれた山で、この年安治川や木津川の河口に堆積した流砂の大ざらえが行われ、その時に出た土砂を積み上げて出来上がったようです。最初は船舶航行の目印として目じるし山と呼ばれていたのですが、その後天保年間の大ざらえを記念して"天保山‟と呼ばれるようになり江戸時代の末には庶民の行楽地として名所図会にも描かれました。⊛引用「大阪を古地図で歩く本」河出夢文庫