淀の陽だまり 第11回 光厳天皇①/蓮華寺

①持明院統と大覚寺統

 日本史の授業で、南北朝時代というのは鎌倉幕府から室町幕府に移る上での移行期として吉野に南朝が置かれ、足利義満により合一されるまで60年ほど皇統が二つに分かれたといった程度の扱いですが、

 日本の国土に同時期に二人の天皇がいたというのはかなり異例な事態でした。(ただし、北朝/南朝のそれぞれの天皇が正式に即位したかは意見のある所で、京都にあった幕府公認の北朝の天皇には正式な三種の神器を欠いていて、草深い吉野や賀名生(あのう)で即位した南朝の天皇も実態が弱く形ばかりというのが実情)

 さかのぼれば、元寇の頃朝廷では鎌倉幕府の優柔不断もあって、後深草天皇(嫡系)をもととする持明院統と、後深草の弟である亀山天皇(傍系)をもととする大覚寺統とに分かれ、兄弟それぞれの系統から順番に天皇を出す〈両統迭立りょうとうてつりつ〉という事態が生じていました。それでも天皇は一人順番に出していたわけですが、一方が天皇を出す(幼童だったり少年)とその父(昔天皇だった)が院政をしいて治天の君として朝廷の権力を握り、その代り相手方の次代を皇太子につけて次期天皇とするといった形。 弟系とはいえどちらかと言うと大覚寺統系の方が経済基盤も強く、亀山・後宇多・後醍醐とやり手の天皇が続いたようで、特に後醍醐天皇は両統迭立のような幕府の方針に敢然と異を唱え、

自身は1318年天皇となると(もともと天皇になる予定でなく31歳の成年天皇)父後宇多の院政を退けて天皇親政を目指していたようで、持明院統や幕府から、早く譲位してこちらの天皇(光厳)を立てるよう催促されても拒絶し、あまつさえ討幕をもめざすありさまでした。

 つまり自身が院となって院政を敷くのでもなく、幕府の介入を招くのでもなく、平安時代初めの醍醐天皇( 897~930)の治世〈延喜の治〉を体現しようと思われていたようです。 しかも、本来の天皇の天皇諡号は亡くなってから贈られるようなのですが、尊治(たかはる、後醍醐)は生前から自身を後醍醐と呼ぶようにして終始、天皇親政の世(成人天皇が政り事を行う)をめざしていたようです。

 そんな大覚寺統に押され気味の持明院統のホープとして期待されたのが光厳天皇(1313年生まれ)でした。

生まれた時は叔父の花園天皇の世で、父の後伏見と祖父の伏見院も健在で持明院統の時代だったのですが、1317年に祖父の伏見院が亡くなると大覚寺統の圧力に抗しきれず花園天皇は譲位され1318年後醍醐天皇が即位されました。当時、後醍醐は31歳、光厳は6歳でした。

 光厳(量仁かずひと)は祖母から和歌の道を、父から琵琶の伝習を、叔父の花園院からは古今の帝王の道を学ばれ、まさに天皇になるべく育たれたわけですが待ち受ける運命はあまりにも苛烈なものでした

②後醍醐天皇の挙兵と鎌倉幕府の滅亡

 先にも述べましたように後醍醐は天皇位にこだわり13年ほど天皇だったのですが、1331年ついに討幕の行動に出て都を出て笠置山に籠ります。いわゆる元弘の変ですが結局は幕府に捕らわれ隠岐へと流されます。持明院統としては待望の光厳天皇が即位し、父後伏見の院政となりました。もともと持明院統系は幕府に協調的だったようですが、時の鎌倉幕府の六波羅探題、北条仲時も若き天皇に期待を寄せ友情関係のようなものもできていたようです。ところが1333年(元弘3年)になると、いよいよ討幕の兵乱が全国に広がり、河内の楠木正成、笠置を脱出した後醍醐の皇子護良親王(もりよししんのう)(大塔宮)が吉野で、山陽道では赤松円心らが兵を挙げます。

 鎌倉の執権、北条高時は大規模な鎮圧軍を編成し足利高氏(のちの尊氏)など有力な御家人を京に攻め上らせますが、隠岐を脱出した後醍醐の声高な幕府討滅の旗印のもと諸国の武家勢力は後醍醐のもとに集まります

さらに足利高氏、新田義貞といった幕府の有力御家人も反旗を翻して、鎌倉幕府はあっけなく瓦解して北条一族は滅亡します。

 そんな中、5月に足利高氏らに六波羅探題を堕とされ、京を追われ鎌倉に落ちようとする北条仲時ら鎌倉武士は、光厳天皇や後伏見院、花園院を連れて中山道を下ります。光厳天皇自身途中で野伏せりによって矢傷を負う中、ついに近江の番場宿(滋賀県米原市)というところで追手の軍勢に阻まれ(近江源氏の一人、佐々木道誉らの軍勢か?)北条仲時以下 430名余りの鎌倉武士たちが蓮華寺というお寺の境内で自刃するといった凄惨な出来事が起こったようです。もちろん光厳天皇ら持明院の天皇家の方々も悲劇を目の当たりにし茫然自失、前後不覚状態で京都に捕らえ戻されました。

蓮華寺

 夏の日盛りの午後、私は新大阪からJRの新快速で米原に向かう予定でしたが、琵琶湖線のダイヤが乱れていて新快速でなく快速の米原行きになってしまいこれがかなりしんどかった。高槻から米原まで各駅停車の上、車内はテスト期間なのか次々と高校生が乗り込みぎゅーぎゅー詰めで、普段なら1時間半ほどのところ2時間近くかかりました。当初は米原駅の東口から歩いて蓮華寺まで行く予定をしていましたが、暑さも厳しく、駅に隣接する米原市役所で自転車をレンタル(一日 500円)して自転車に乗って往復しました。

 途中坂道もあり息切れしましたが15分程で旧中山道の番場宿に着き、左に折れると蓮華寺はすぐです。名神高速のガード下をくぐると格式のある山門が建ち、左に回って境内に入ります、入口で 300円

払ってお寺のパンフレットを頂き玄関に入ろうとすると、お寺の住職の方が本堂の中まで案内してくださりお寺の由緒など説明してもらいました。内陣は荘厳に満ち菊の御紋と徳川家の三つ葉葵の紋が印象的で仏様も阿弥陀如来と釈迦如来の二尊が並んでご本尊にされていて鎌倉時代の作だそうです。

 お寺の裏の坂道を少し上りますと北条仲時公をはじめとした鎌倉武士の 430名余りが元弘3年(1333)

5月7日ここで自刃したことを供養するための小さな五輪の塔の石塔がいくつも建ち並んでいて、ここで果てていった人々の無念が伝わってきます。

 番場宿は旧中山道の62番目の宿場で、今はひっそりとしていますが街道に建つ古い町屋が往時の雰囲気を今に留めていて、遠くに伊吹山の山容が望めて江戸時代にタイムスリップしたような錯覚になります。