③建武の新政の挫折と南北朝のはじまり
京都に還幸した後醍醐天皇は何事もなかったかのように引き続き天皇として様々な新しい政策に取り組み〈建武の新政あるいは親政〉光厳天皇の即位はなかったものとして取り消されたようです(かなり異例である)、それでもその後、上皇という形で後醍醐の内親王であるよし子内親王を上皇妃として迎えました。ただ、光厳には先に秀子という妃がいて二人の間には後の崇光天皇,後光厳天皇となる子らが生れています。いわば後醍醐天皇が持明院統をも吸収しようとする目論見でなされた政略的な婚姻です
ただ、この天皇としての在位は認められなかった(取り消された)光厳天皇ですが、公的に院となった事が後の南北朝の分裂につながって行きます。
というのも、建武新政は武家の不満が高まり、足利尊氏は後醍醐天皇と決別する形で反旗を翻すのですが、尊氏はこの光厳院の院宣をもらうことで朝敵とならずに九州の少弐氏、大友氏他の武家勢力を結集して再度京都に上り〈途中、湊川の戦で楠木正成を敗死させる〉後醍醐を追放するのです。
そして北朝の天皇として光厳の弟光明天皇をたてました。後醍醐は吉野に移って南北朝が始まるのです。(1336年)
④観応の擾乱と正平の一統
1338年、足利尊氏は正式に北朝から征夷大将軍に任命され室町幕府が開かれます(ここで注目したいのは日本の歴史の上で初めて京都の中枢に本格的に武家政権が生まれたことですが、この点は今は省きます)
しばらくは、幕府と北朝による政治的な安定が続きます。(光厳院は勅撰和歌集の編纂にも取り組みます)南朝側としては翌1339年に後醍醐天皇が吉野で崩御され、(52歳)又、1348年には高師直らの幕府軍により楠木正行が四条畷の戦いで敗れ、吉野の行宮も焼け落ちて吉野を逃れ賀名生に避難するなど軍事的劣勢が続きました。
しかし、ここで幕府内での主導権争いがおこり、高師直と尊氏の弟である足利直義(ただよし)との不仲から発展して尊氏と直義の兄弟対立が深刻化します。直義は高師直を滅ぼしますが、尊氏は実子の義詮(2代将軍)への後継をもくろみ義詮を鎌倉から京に呼び寄せ、一方直義は北国を経て鎌倉で再起を図ります(観応の擾乱)〈1350~52〉
尊氏が鎌倉の直義を討つためにとった方策が、なんと南朝との和睦でした(正平の一統)㊟1)
勢いに乗った吉野側は後村上天皇㊟2) を中心に京都を攻め。ついに北朝の崇光天皇と光厳院,光明院らを御所から拉致して賀名生に軟禁する事態に至ります。
尊氏は直義を破り(毒殺されたとも?)京都も奪還するのですが、京都は天皇不在状態でした。(後村上天皇も崇光天皇ら北朝の方々も吉野の山中にいるのですから)やむなく幕府は唯一京都にいた光厳院の次子で崇光天皇の弟にあたる弥仁親王(いやひと)(当時15歳)を後光厳天皇として即位させます。
ここへ来て事態がハチャメチャで考えようによっては天皇は後村上天皇と崇光天皇、後光厳天皇の兄弟二人で計三人おられる事にもなりかねません?
幕府は、新たにたてた後光厳天皇とその系統を重視し、吉野に残された光厳院以下は棚上げ状態で幕府からも無視された形になったようです。結局光厳院は賀名生や河内の天野山金剛寺などにとどめ置かれ京都に戻ったのは1357年の事で、およそ5年あまりの歳月が経っています。帰朝後、光厳院は皇統を一つにするべく弟帝である後光厳天皇に働きかけ、天皇位は一代限りにして兄の崇光系に統一するよう尽力するのですが、後光厳天皇とは折り合いも悪く北朝の中でも分裂状態となりました。
失意の中光厳法皇は、晩年には禅に打ち込まれ、法体となって諸国を歩き、京北丹波の山国郷という所に常照皇寺を開基して1364年奇しくも後醍醐天皇と同じく52歳で亡くなられました。
㊟1 正平の一統とは、1351年10月から翌年3月にかけて一時的に南朝と幕府が和議を結び、北朝の天皇が一時廃位され年号も南
朝の年号「正平」に統一されたことをいう
㊟2 後村上天皇というのも、醍醐天皇の後の村上天皇の治世(天暦の治)に倣ってつけられたと思われ、あくまでも天皇を中心
とした治世を目指した南朝の思いが伝わります
⑤南北朝合一とその後
天皇位は、室町幕府によって弟の後光厳から後円融、後小松天皇と続いて1392年足利義満により南北朝が合一され、次代の称光天皇の後に男子の嗣子がおられず、ついに光厳天皇が望まれていた、そして不遇をかこいつつも皇統の正嫡に帰することを願っていた崇光天皇のひ孫にあたる伏見宮家の彦仁親王が1428年後花園天皇として即位され、現在の皇室につながって行くのです。
光厳天皇の一代を小説にされた荒山徹さんの『風と雅の帝』(PHP文芸文庫 2026刊)を拝読後、常照皇寺を参詣して、この稿をブログとしました。その他参考図書として
「南北朝時代」 森茂暁著 (講談社現代新書 2026刊)
「ビギナーズクラシックス日本の古典 太平記」 武田友宏編 (角川ソフィア文庫)
「北朝の天皇」 石原比伊呂著 (中公新書 2020年刊)
常照皇寺
私は梅雨の長雨がようやく明けた7月某日、阪急四条大宮前のバス停から8:42分発の周山行きJRバスに乗りました。周山街道は御室仁和寺から高雄を経て周山に至る街道で、古くから京から丹波・若狭方面に抜ける街道になります。四条大宮からのバスは立命館大に通う学生などを乗せて北上し高雄や栂ノ尾で観光客も降り車内は乗客3人だけになりました。バスはさらに多くのカーブを曲がりトンネルを抜け北山杉に覆われた緑豊かな山並みの中を進み約1時間20分位で終点の周山に着きました。
周山地区は現在の行政区分では京都市右京区になっていますが、旧分国ではすでに丹波の国となり、民家の形も異なります(入母屋造りの大きな屋根で間口の広い農家が多い)
常照皇寺は此処からさらに山国郷といわれる地域を桂川に沿って6㎞ほどあがった所にあり、京北ふるさとバスというコミュニティバスがありますが平日は本数も少なく歩いて行きます。途中の自然の美しさに感動しきりで、桂川の水は清く、上空にはトビがピーヒョロと鳴いて天空を舞い、川辺にはシラサギが優美に佇んでいると思えば、田んぼの中でガチョウがガーガーと気ぜわしく鳴いています。楽しさあふれる里山歩きでした。40分くらい行くと山国神社があり、こんもりとした杉の古木に囲まれた静かなお社です。ここからさらに40分程歩いてようやく常照皇寺に着きました。
緑に覆われた小さな山門をくぐり緩やかな階段状の坂道を登りますと、優雅な勅使門と築地塀に囲まれたお寺が見えてきます。左手の庫裏の玄関を入ると、不在の時は 500円の志納料をを納めてご自由にお入りくださいという貼紙があり、誰もいない静かな構内をゆったりと見学させて頂きました。
山里の禅寺らしく華美な所はないですがきれいに掃き清められた方丈の書院に襖絵や仏具がさりげなく置かれていて、それでいて皇室ゆかりのお寺らしく優美さが漂うのは方丈前庭に植えられた御所の桜の存在も大きいでしょう。特に心を奪われたのは、庭を抜けて縁台を進んだ先にある開山堂のお堂の内部です。両脇の梁の上部に羅漢の群像が薄暗いお堂の中でライトアップされ、生き生きとした表情を見せてくれていて禅宗寺院独特の雰囲気でした。
光厳院はまさしく天皇となるべく生まれてきたわけですが(祖父も父も叔父も弟も、2人の息子もみんな天皇になっています)武家の動乱の中(北条氏、足利氏、新田氏などの争い)又は皇統をめぐる争乱の中(持明院統と大覚寺統さらに北朝の中での分裂状態)実に数奇な運命に翻弄される中で、武家と公家の在り方について苦慮され、皇室の伝統を守り伝えることに尽力されたのだと思います。
最晩年この美しい山里で静かな祈りの中過ごされた事に思いを馳せ、そしてこのお寺を守ってこられた方々にも感謝しつつ帰りも6㎞の道をバスに乗り遅れてはいけないと急ぎ足で周山まで戻りました。
‘’沈み果つる 入り日のきはに あらはれぬ かすめる山の なほ奥の峰"
京極為兼『風雅和歌集』より









